2014年9月アーカイブ

約五二億の人類は、生きるために地球上の陸地面積の約三分の一を耕地・樹園地・牧野として独占的に利用しています。

少なくとも数百年前は、これらの土地には豊かな林があり野原が広がっており、さまざまな動物たちが住んでいました。

人類は作物を育て、家畜を飼うために、林・野原を拓き動物たちを追い出してしまいました。

また、人類はより豊かで便利な生活をするために、地球と生物群とくに植物群とが四〇億年以上という長い歴史のなかで準備したさまざまな物質を資源として、正に湯水のように消費しています。

このためにさまざまな生産廃棄物を、また生存排泄物を多量に環境内へ放出しています。

地球環境および自然生態系は、そのエネルギーの流れと物質循環のプロセスを通じてそれらの廃棄物と排泄物を分解し無害化する機能、すなわち自然浄化能を備えています。

少なくとも数百年前まで、より正確にいえば産業革命前までは、地球上の自然環境は自然要因によって変化し、進化してきました。

しかし、人口が増え生産活動が肥大するにつれて、地球環境への人間活動の影響は年々大きくなり、現在また近未来では人間の存在と活動を無視して地球環境は語れなくなってきています。

しかも、現在人間活動によって生じようとしている気候変化の速度は、過去に多くの生物が進家禽化の途中で経験した自然的な気候変化のそれより二~三桁も大きいのです。

それゆえ、近未来に予想される入為的気候変化は、地球上の環境に適応的に生存してきた自然生態系、それに大きく依存している食糧生産、そして人類社会に大きな影響を与える可能性があります。

創造的な発想というのは、人と違うから創造性があるわけなのに、違ったことをいおうとすると回りからつぶされてしまうような環境ではダメだ、というわけなんです。

利根川先生は京大出なんだけれども1京大というのは東大よりもまだ割合にのんびりした環境なのですが、それにしてもやはり違うというのです。

どうも日本というのは、人と変わったことを考えたり、言ったりすると、あいつは変わり者だとか、あいつのいうことは何か少しおかしいそといってつぶしてしまう。

そうではなくて、おかしい考え方をもつやつはおもしろいではないかという環境条件が出てこないと、本当の創造性は伸びてこないということをいっています。

たとえば、今ごろわれわれの子供、あるいは孫などをみていても、マルバツ式ですね。

この間こっちに来たときに、ある新聞記者が、利根川先生みたいな、ノーベル賞をもらうような創造的な発想をやるためには、日本の科学界やあるいは日本の科学者は、これからどういうふうにあったらいいと思いますか、という質問をした。

そのときに利根川先生はこういっている。

何かというと、普通の学者がおよそ考えられないような変わった考え方をもって、平気で人の前でしゃべれる、そういう科学者がいられるような研究環境が大事なのだ、といっています。

日本でいば、これは何も科学者に限らない。

人と違った考え方をいうと、まわりから寄ってたかってつぶされてしまうことが多いわけです。

「おまえ、そんなことやったら、失敗したらどうするんだ」とか、回りで寄ってたかってしつぶしてしまう。

そうなると、思い切った発想、創造性の発想がでてこない。

何か思い切って考えようというときは、まず一つは今までの考え方を一遍否定してみる。

これを論理学では「仮説の定理」、仮説の原理(ハイポセス・セオリー)といいますが、一遍否定して仮定してみると、いろいろと異った発想の考え方がでてくる。

その中に今までのトレンドの上、傾向線の延線上では考えられなかった思い切った考え方の芽生えがあるという考え方です。

これは何も農業関係だけではない。

皆さん方がいろいろな場面にぶつかったときに、時々このアメリカの小ばなしを思い出していただきたいと思います。

これは話が違いますけれども、昨年ノーベル賞を受賞した利根川進先生、現在アメリカに留学中ですけれども、利根川進さんは今、千葉大の臨時講師で年に一遍か二遍来て、千葉大で講義をやっています。

勉強しようとするときは、今までの学説がある。

そういう過去のいろいろな取り決めに従ってずっと仕事をし、考え方を展開していきます。

過去のトレンド、傾向、今までのしきたりに従ってずっといく。

ところが、それでは将来二一世紀は非常に難しくなってくる。

発想を転換しろといっても、過去のトレンドの上で想像するのが普通です。

そうなってくると、この過去の傾向線上で考える。

発想の転換といったって、どうしても過去のトレンドに制約されてしまって、思い切った発想の転換がでてこない。

これが初めにいった大人の、「初めに的ありき」の考え方。

ところが、これを否定してしまう子供の発想になると、初めに的ありきを否定してしまうわけだから、今までの取り決め、傾向、トレンドに影響されることがないから、いろいろと飛躍した発想が考えられるわけです。

そのいろいろな発想の中に、将来の新しい発想の芽生えが宿っているのだという考え方です。

これは発想の転換の一つの考え方です。

そのことが日本の一部の入たちにも影響を与えまして、日本は子供の産み方が少な過ぎるということを議論して、もう少し人口政策をとるべきではないかという意見が少しでてきているように思います。

けれども、これは私の考えでは、慎重に考えるべき重要な問題であると思います。

どうしてかといいますと、いったん人口増強策をとりますと、長くその影響が残ります。

ようやく戦前の過剰人口問題を解決し得た日本がもう一度出生率を引き上げて、この低い死亡率の中で子供の数をふやせぱ、おそらく日本の人口は将来二億を超える、あるいは三億に近づくであろうと思います。

このことは、世界全体の食糧不足、資源不足の中であっては憂慮すべきことで、日本としては、人口がたとえ減ることはあるにしても、しばらくの間これに耐えていくのが本当ではないかと思います。

1985年時点でドイツが一・三人、スウェーデンが一・七四人、イギリスが一・七九人、フランスが一・八四人、そして東ドイッが一・七六人、このような格好になっております。

そういうわけで、ヨーロッパ諸国では人口政策をとろうという動きがみられます。

しかし、彼らは今急いで人口政策、出生力増強のための人口政策をとろうとはけっして考えておりません。

その理由はいくつかありますが、一つは、ドイツにおけるナチスの人口政策が非常に暗い影を落としているからでありまして、もう二度とああいう非人間的な人口政策をとるべきでないということで、ドイツの政府は、人口政策をとることを躊躇しております。

しかし内心は、ドイツだけではなく、フランスや多くの先進国が、何らかの方法で出生率をもう少し高める必要があるのではないかと感じていると思います。